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2009年以来、
関西在住の有志を中心に、
内向の世代の文学者・後藤明生の世界について話し合っています。

 

■第51回後藤明生を読む会開催のお知らせ■

2009年の暮れから有志で集まり、内向の世代の文学者・後藤明生の評論集を制作・刊行してみようと話しあってまいりました。

その成果の一部は2024年2月に刊行された後藤明生を読む会編『後藤明生を読む』(学術研究出版/2024年)にまとめられましたが、

『後藤明生を読む』の続編の刊行を目指して、後藤明生を読む会は今後も継続的に開催してまいります。

後藤明生の作品について共同で討議をするなかでお互いの認識と協同性を高めあい、

新たな後藤明生論集を執筆・刊行してゆく道筋をつけていければと考えております。

特に発表者と聞き手とが相互に入れ替わることで各人がテクストの読み手であると同時に書き手であるという相互変換的な存在へと成長していければと願っております。

 

9月13日、

後藤明生を読む会の第51回がもよおされました。

参加してくださった有志のみなさま、

有難うございました。

次回は来年の年明け頃の開催を予定。

テキストは『蜂アカデミーへの報告』(新潮社)。

日時等の詳細はあらためてご連絡します。

有志の皆さま、

ふるってご参加ください。

(2025年09月14日)

■後藤明生を読む会編『後藤明生を読む』刊行のお知らせ■

後藤明生を読む会編『後藤明生を読む』が刊行されました。

これまで続けて来た後藤明生を読む会の活動成果のごく一部が活字となった文集です。

電子書籍版および電子書籍のプリントオンデマンド版で販売中。

【一例】

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タイトル:後藤明生を読む

編著者:後藤明生を読む会編

出版社:学術研究出版/発行日:2024年2月20日/ISBN978-4-911008-45-4

 

◎目次◎

■論考■

乾口達司:Sの誘惑——「S温泉からの報告」における温泉の<効用>

甲木文武:「書かれない報告」論 <物語ること>について——無名氏というメディウム——

来多邨平:記憶、断片——『夢かたり』をめぐる断章

松井博之:『行き帰り』について

 

■共同討議■

乾口達司+来多邨平+小林幹也+竹永知宏:『挾み撃ち』をめぐって

 

■ノート■

来多邨平:『夢かたり』の彼ら——本田君・田中・従姉・萩原恭次郎

乾口達司:永興神社と永興天主教堂——永興・南山と後藤明生——

 

■資料■

後藤明生:五月の幻想

乾口達司:「五月の幻想」発見記

来多邨平:「五月の幻想」への二、三の註

 

■エッセイ■

金窪幸久:勇気ある書出し

名嘉真春紀:なぜ読み、書くのか? それは後藤明生を読んだからだ。

安田誠:文学とは風である

松崎元子:父と水

後藤忠彦:私の引き揚げ体験

 

■小説■

安亜沙:いしのにんぎょう

 

■あとがき■

死者と生者の饗宴——『後藤明生を読む』の刊行に際して——

 

装丁原案:安亜沙+乾口達司

【執筆者一覧】(五十音順)

 ■安亜沙(あん・あさ)■

1996年生まれ。美術家。

個展にアンバー・ランド(Gallery PARC・京都/2019年)、ネオ人類研究(Oギャラリーeyes・大阪/2023年)など。

URL→

 

■乾口達司(いぬいぐち・たつじ)■

1971年生まれ。会社員。

著書に『花田清輝論』(柳原出版/2003年)、後藤明生著/乾口達司編『日本近代文学との戦い』(柳原出版/2004年)など。

URL→

 

■甲木文武(かつき・ふみたけ)■

1977年生まれ。会社員。

URL→

 

■金窪幸久(かねくぼ・ゆきひさ)■

1957年生まれ。元会社員。2021年永眠。

 

■来多邨平(きたむら・たいら)■

1950年生まれ。元出版社勤務。

 

■後藤忠彦(ごとう・ただひこ)■

1933年生まれ。後藤規矩次・美知恵の三男として、旧朝鮮・永興で生まれる。2020年永眠。

 

■後藤明生(ごとう・めいせい)■

1932年生まれ。小説家。後藤規矩次・美知恵の次男として、旧朝鮮・永興で生まれる。1999年永眠。

代表作に『挾み撃ち』(河出書房新社/1973年)、『吉野大夫』(平凡社/1981年)、『壁の中』(中央公論社/1986年)など。

 

■小林幹也(こばやし・みきや)■

1970年生まれ。教員・歌人・近畿大学文芸学部非常勤講師。

歌集に『裸子植物』(砂子屋書房/2001年)、評論集『短歌定型との戦い』(短歌研究社/2011年)など。

 

■竹永知弘(たけなが・ともひろ)■

1991年生まれ。日本現代文学研究、ライター。おもな研究対象は「内向の世代」。

 

■名嘉真春紀(なかま・はるき)■

1986年生まれ。出版社勤務。

 

■松井博之(まつい・ひろゆき)■

1966年生まれ。2003年、「<一>と<二>をめぐる思考―文学・明治四十年前後」で第三五回新潮新人賞評論部門を受賞。2012年永眠。

著書に『<一>と<二>をめぐる思考―文学・明治四十年前後』(文芸社/2014年)。

 

■松崎元子(まつざき・もとこ)■

1966年生まれ。アーリーバード・ブックス代表。後藤明生著作権継承者。

 

■安田誠(やすだ・まこと)■

1970年生まれ。会社員。

 

 

●死者と生者の饗宴――『後藤明生を読む』の刊行に際して――

 

二〇〇九年四月四日、後藤明生を読む会の立ち上げを話し合うため、小林幹也、松井博之と大阪で酒を飲んだ。そして、会合のなかで話し合われたことを、将来、書籍としてまとめようという話になった。それが、今回、上梓した『後藤明生を読む』である。事実、『後藤明生を読む』におさめられた文章の多くは、後藤明生を読む会のなかで話し合われたことを踏まえて書かれている。

小林幹也や松井博之と話し合ったときのことはよく憶えている。そのとき、小林幹也が積極的に提案したのは「排除の論理」を働かせるべきではないというものであった。会合に参加するための資格を設けないこと、来るもの拒まずの精神で有志ともども後藤明生を読む会をもりあげていこう。「排除の論理」を働かせないというのは、そういった意味である。これは、以前、小林幹也や私が編集委員として制作を担当していた雑誌の基本理念を引き継いだものである。その精神は現在にいたるまで引き継がれている。二〇〇九年の発足当初から後藤明生を読む会に参加をしている有志はもちろんのこと、途中から参加してくれるようになった有志が『後藤明生を読む』に文章を寄せているのは、その証である。

排除の論理を働かせるべきではないという小林幹也の提案を敷衍する形で、将来、『後藤明生を読む』を刊行する折はおのおのが寄せる文章のスタイルにも制約を設けるべきではないということを提案したのは、私であった。後藤明生を読み、考え、研究するものの集まりであるからといって、何も研究論文のスタイルに固執する必要はない。書かれたものが後藤明生を意識したものであれば、肩の力を抜いて、おのおのが自由なスタイルで書いてよいのではないか。たとえ、研究論文のスタイルを踏襲したとしても、研究論文を偽装するニセ論文のような批評性、ユーモア精神があってもよいのではなかろうか。取り挙げるテキスト、そこから読み取るテーマもおのおのの関心領域にもとづいて自由であって構わないのではないか。そんなことを提案したのである。私の提案もまた現在にまで引き継がれている。『後藤明生を読む』におさめられた有志の文章が特定のスタイル、テーマに限定されていないのは、その証である。

私たちはこのような精神で後藤明生を読む会を続けて来た。しかし、その道のりは決して平坦であったわけではない。二〇〇九年から一五年近い歳月が流れるなか、当初、想定もしなかった出来事がたびたび起こっている。その第一としてあげたいのが、松井博之の他界である。松井博之のことは「松井博之と幻の『行き帰り』論」のなかに書いた。したがって、同じことを繰り返し書くつもりはない。しかし、後藤明生を読む会の発足時から会合をもりあげてくれた松井博之の他界が私たちに強いショックを与えるものであったことだけは、ここであらためて記しておきたい。

新型コロナウイルス感染症の流行により、それまで続けて来た対面での集会が開けなくなったことも、想定外の事態であった。それにより、二〇二〇年の初春から三年近く、会合の中断を余儀なくされた。金窪幸久との出会い、そして、別れはそのような新型コロナウイルス感染症が流行しているときであった。金窪幸久が後藤明生を読む会への参加を問い合わせて来たとき、後藤明生を読む会はすでに活動を休止していた。その問い合わせに対して、私は申し訳ない気持ちであった。代わりに後藤明生についての短いエッセイでも書いてみませんか。私はそう提案をした。金窪幸久は私の提案をよろこんで受け入れてくれた。では、書いたら送ります。金窪幸久はそう返事をした。それからしばらく連絡がなかった。次に連絡があったとき、連絡をして来たのは、金窪幸久本人ではなかった。金窪幸久は、先日、他界した。連絡を寄越した金窪幸久のご家族は私に対してそういった。葬儀はすでに近親者で済ませた。初七日も終えた。少し落ち着いたため、生前、縁のあったものたちに対してそのことを連絡してまわっているという。ご家族からの話を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、松井博之のことであった。松井博之の急逝を知ったのも、やはりご家族からの連絡であった。私は居ても立ってもいられない気持ちになった。後藤明生を読む会の再開を心待ちにしていた金窪幸久のためにも、早急に後藤明生を読む会を再開しなければならないのではないか。そんな思いにとらわれた。しかし、新型コロナウイルス感染症の流行はまだおさまってはいなかった。感染者数・死亡者数も、連日、新聞やテレビで報道されていた。結局、私が後藤明生を読む会の再開を有志に打診したのは、金窪幸久の訃報に接してから一年近くたってからである。その後、ご家族から一篇のエッセイが届けられた。金窪幸久が、生前、使っていたノート型パソコンのなかに「ごとう」と名付けられたフォルダがあったという。エッセイは「ごとう」と名付けられたフォルダのなかにおさめられていたということであった。それが「勇気ある書出し」である。「勇気ある書出し」の送付はあたかも金窪幸久が私たちに後藤明生を読む会の再開、『後藤明生を読む』の刊行を強くうながしているかのように思えた。

後藤明生の一歳年下の弟に当たる後藤忠彦から「私の引き揚げ体験」が届けられたのは、かれこれ十年近く前である。とある件がきっかけとなり、後藤明生を読む会の活動とは別に、後藤明生の周辺にいた関係者に連絡をとる必要があった。そういった関係者とのやり取りのなかで、ある日、私のもとに「私の引き揚げ体験」が届けられたのである。はじめてお会いしたのは「私の引き揚げ体験」を頂戴してから数年後であった。所用で九州に出掛けた折、もう一人の弟氏ともども、福岡市の成道寺でお会いをした。足腰が弱っているため、満足に話をすることが出来ない状態である。許してほしい。お会いして早々、後藤忠彦はそういった。しかし、そのお話は私には貴重なものであった。別れ際、後藤明生や後藤忠彦の生まれ育った旧朝鮮・永興に関する幾つかの資料を頂戴した。そのときのやり取りのなかで、私は「私の引き揚げ体験」を、今後、刊行する予定の『後藤明生を読む』に収録させていただきたいと頼んだ。すると、後藤忠彦は次のように答えた。一度、手が離れた原稿はもう私のものではありません。煮て食おうと焼いて食おうとご自由になさってください。あなたが役に立たないと判断されたら、捨ててくださってもいっこうに構いません。後藤忠彦も数年前にこの世を去った。後藤忠彦を思うと、そのときの言葉がいつも思い出される。

松井博之、金窪幸久、後藤忠彦。彼らがこの世を去る一方、後藤明生を読む会の活動に賛同し、かかわってくれる有志が何人も現れたのは有り難かった。松崎元子からは、今回、「父と水」と題したエッセイを寄せていただいた。これは後藤明生の言動を間近で見て来た肉親でなければ書けない文章である。来多邨平とはかれこれ二五年来のかかわりとなる。後藤明生を読む会を立ち上げることになったとき、私が真っ先に参加を依頼した相手も来多邨平であった。その論考はときにユーモアを感じさせるものであり、本文よりも註の方が面白いのではないかと思わせるところも、愉快な来多邨平に相応しい。甲木文武に後藤明生を読む会のことを話し、原稿を依頼してからもう十年が経った。私の依頼を突っぱねることなく、今回、「『書かれない報告』論 <物語ること>について——無名氏というメディウム——」を書いてくれたことを交誼の賜物であると短絡的にとらえるのは不充分である。むしろ、甲木文武がそれほどまでに後藤明生の世界を読み解きたいという年来の願望を粘り強く抱き続けて来た証であると解釈するべきである。名嘉真春紀からはじめて電話をもらったのは、名嘉真春紀が企画した後藤明生の未完の大作『この人を見よ』(幻戯書房/二〇一二年)の編纂が大詰めを迎えていたときであった。名嘉真春紀は私が編者となって刊行した後藤明生の遺稿集『日本近代文学との戦い』(柳原出版/二〇〇四年)を読み、私が書いたあとがきのなかで『この人を見よ』という未完の大作が存在することを知ったという。そのため、何度も感謝をされた。しかし、感謝をしたいのは、むしろ私の方である。よくぞあれだけの大作を書籍化しようと立案し、実行に移してくれたものである。そして、今回もアレルギー性鼻炎に悩まされながら「なぜ読み、書くのか? それは後藤明生を読んだからだ。」を寄せてくれた。大学時代の畏友・安田誠からは、以前、別のところに発表した「文学とは風である」の転載を認めてもらった。「文学とは風である」は、後藤明生の他界後、しばらくして書かれた追悼文である。安田誠がいつか本格的な後藤明生論を書き、後藤明生の墓前に献じることを心待ちにしたい。竹永知弘は古井由吉をはじめとする内向の世代を研究する新進気鋭の研究者である。竹永知弘がはじめて後藤明生を読む会に参加したのは「『挾み撃ち』をめぐって」と題した共同討議がおこなわれた日であった。この日は『挾み撃ち』をめぐって有志が意見を出し合い、それを記録し、後に活字化することが予定されていた。竹永知弘はそんな日にひょっこり現れたのである。はじめて参加をした日にいきなり『挾み撃ち』について話さなければならなかったことは、さぞ、迷惑であっただろう。発言の内容も不充分であると思っているに違いない。しかし、内向の世代の文学史的位置づけについて語ったその知見は充分に貴重である。竹永知弘が、今後、どのような論考を書いて来るか、とても楽しみである。後藤明生を読む会では、毎回、特定のテキストを決めて、こういった討議をおこなっている。後藤明生を読む会においてどういったことが話し合われているか、その参考資料として、今回、その収録を決めた次第である。安亜沙の「いしのにんぎょう」は、数学者アラン・チューリングの生涯をパロディ化した小説である。先にも書いたように、後藤明生を読む会では、おのおのの書く文章のスタイルに制限が設けられていない。しかし、私がそのことを提案をした時点では、まさか小説まで書いて来るものがいるとは想定していなかった。それだけに安亜沙が小説を提出してくれたことは驚きであった。しかも、「いしのにんぎょう」は自由意志を放棄した人間に別の人間の意志を移すことの可能性と不可能性をテーマにしたものである。星新一や大江健三郎の小説を思い起こさせる記述も認められるものの、後藤明生を読む会において提出されたそれは、当然のことながら、いまは亡き後藤明生の意志/遺志をほかのものが継承出来るだろうかというテーマを寓話化したものとして積極的に敷衍することが可能である。そのテーマそのものがはからずも後藤明生を読む会の趣旨と連関したものとなっている。

このように『後藤明生を読む』は死者と生者とがおのおのの後藤明生論を提出するという、当初、想定もしていなかった体裁で刊行されることとなった。死者と生者の饗宴である。むろん、それは喜ばしい現実ではない。しかし、それを嘆き、悲しんではいられない。道はどこまでも続く。私たちは立ち止まることなく、その道を歩んでいかなければならない。それは後藤明生をふくむさまざまな死者との果てしない対話である。なお且つ、対話を続けるなかで、彼らをいつか乗り越えていく作業でもある。むろん、生者もまたやがては死者となる。そのときはまた残されたものが新たな死者との対話を繰り返し、それを乗り越えていく。人生とは、そういったことの果てしない繰り返しではなかろうか。したがって、将来、あともう一冊だけまとめたいと思っている『後藤明生を読む』の続篇は、今回とはまったく違ったコンセプトで作られるべきである。しかし、それまでに私たちは果たして生者の側にいられるだろうか。

生と死をめぐる不安と期待とが交錯するなか、今回、『後藤明生を読む』の刊行に際して、後藤暁子、後藤斉、後藤和彦、松井照子、金窪祥子、中里輝美、竹原有希子、洪薫子の諸氏からはさまざまな理解と協力を得た。風詠社の大杉剛氏には編集に尽力していただいた。彼らの理解と協力がなければ、二〇〇九年四月四日以来の宿願は果たせなかった。ここに記して感謝を申し上げます。

 

二〇二四年一月吉日

乾口達司

 

 

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